太田市近郊の写真を載せた平原内科消化器科のページです。院長が好きな太田の今と昔の写真を載せます。

群馬県太田市平原内科・消化器科 hirahara clinic

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国宝武人埴輪は太田出身
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九合小学校のルーツ。開文学校と不倦舎
大泉の廃線跡
須永功と強戸村
国宝武人埴輪

高崎市で現在行われていた記念展
「国宝武人埴輪、群馬に帰る。」

群馬県立博物館に行きました。

この埴輪くん、教科書で見たことがあります。

驚いた事に太田市出身でした。
私たちの大先輩。

6世紀後半の生まれ。1400歳ぐらいでしょうか。

人間の一生なんてこの埴輪君から見れば
短いものです。
君なんて呼んだら怒られそう。

ほかに似たような埴輪も伊勢崎などで
出土しています。
同じ人たちが作っていたのでしょう。

この桂甲武人埴輪は作りが繊細で
今にも右手で剣を抜くよう。
こんな風に資料には書かれています。

太田市飯塚町で発掘されたようです。
詳しい場所は書かれていません。
太田人としては非常に気になります。
夜も眠れない。

群馬県博物館の方に出土地についての質問をしました。
また聞きにくいことですがこの武人埴輪が太田市に展示されていない
理由もききました。

発掘は戦前、戦中の混乱期。
記録ははっきりしたものはないそうです。

発掘場所として
@九合小の前の神社
A飯塚の雑貨屋さんハンプテイダンプテイのところ。 
B飯塚町の運動公園と平原内科の中間点。Oさんの家の場所。

この3箇所があるが一番可能性が高いのはBの飯塚町の場所
ではないかと親切に教えていただきました。

@ABとユウキと自転車に乗り見に行きます。

@番目の場所


A番目の場所

B番目の場所


はいチーズ。カシャ。

当然発掘した跡も記念碑もありません。

Bは以前住まれていた方が土地を売ったようで
分譲されてきれいな住宅が並んでいます。
現地では何もわかりません。

あとは地道に聞き込みをします。
Bの住所に近いところの方、
平原内科消化器科の患者さんからお話を
聞かせていただきます。

平原医院は長くこの地で診療をしています。
見つかるか。

診療をしながら飯塚の人からお話を聞く。

見つかりました。Mさん

Mさんの話。
自分の家の横から国宝の埴輪が出土したとお嫁に来た時に聞いた。
自分の家も地面を掘ると土器の欠けらが出る事があった。
風が強いときには土が飛んで土器の欠けらが落ちていることも
昔はあった。

その博物館の方が言うOさんの土地は分譲するときに調査が入った。
しかし何も出なかった。そこは違う。

こう話されると家まで戻り土器の破片をいただきました。
土器の破片です。



Mさんからいただいてしまいました。

飯塚の地名の塚の理由が分かったような気がします。
塚を壊して発掘すると土器の出る範囲は極めて狭くなる。
遺跡とは違い狭い範囲に土器が分布すると考えられます。

発掘場所は飯塚町の個人の土地にあるようです。
場所はMさんの家の横。

もう一つの質問。
太田の埴輪なら太田に展示してもらったほうがいいのでは。

博物館の方の答えです。

ある個人が戦後この埴輪を博物館に販売したそうです。
所有権が国立博物館になっているそうです。

このため太田市が国立博物館と交渉すれば
太田市に展示は出来るのではないでしょうか。

買い戻すということです。
市長の清水正義さん。出番ですよ。

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須永功と強戸村
太田市成塚町にある永昌寺です。

院長の大間々までの通勤コースにあり時々休ませてもらっていました。
この中に大きな石碑があります。須永好の碑です。
平原内科消化器科の院長は太田近郊の散歩が大好き。
平原内科の院長は自転車でまわる。
戦前に強戸で小作争議がおきました。その指導者が須永好です。
そのとき組合農民が盛んに集会に使ったのかこのお寺です。

本堂の前から振り返ってみた写真。
平原内科の院長は自転車でまわる
須永好の碑
いまは静かなこのお寺で必死の論議が行われたのでしょう。
自由な論議が保障された時代ではありません。
須永好
 須永好の選挙用の絵葉書だそうです。
須永好
 群馬県新田郡成塚村(現太田市)出身。太田中学を中退し、農業に従事。1920年に近隣の強戸村で小作人組合(農民組合)を結成し、小作争議を指導。1922年〜1924年にかけて農会・村議会の多数派更には村長までも組合側から送り出す「無産強戸村」の成立にまで至った。
 
 戦後日本社会党の結成に参加し、中央執行委員に就任。また戦前の農民組合が大同団結して日本農民組合を結成すると、初代の組合長となる。1946年の総選挙で国政に復帰するが、議員在職中に急死。

このように他のサイト上には紹介されています。議会で演説後に倒れたと聞いたこともあります。
須永好の碑とピナレロ
たまに東武線の電車が走る音がしますが静かな所です。
猫
猫の置物、石で作ったものですね。石材屋さんからもらったのかな。

訪れた時に彼岸花(曼珠沙華)が咲いていました。

根に毒があり鼠などが土を掘るのを防ぐためにお墓や田圃の畔に植えられたと聞いたことがあります。

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丸山宿更新平成20年10月20日

先日偶然通りかかった場所です。
不思議な古い宿場町が太田にありました。
丸山宿です。薬師様のそばです。
太田市 丸山宿
通りの中央には水路が流れ両側には古い家並みが残り宿場の雰囲気です。
太田市 丸山宿
太田市 丸山宿
太田市 丸山宿
歯科医院のようです。

「丸山宿は古戸桐生道の伝馬継立場で交通の要衝であった。
桐生から妻沼宿に通じた道筋で利根川を古戸で渡船したたこの名で呼ばれる。」

こんな説明が郷土史にあります。

意外な場所に古い町並みを見つけました。車ではわからなかったかもしれません。自転車で足利へ行く道を研究しているときに通りがかった場所です。

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九合村・九合小学校 平成20年9月13日更新

平原内科消化器科のある場所、太田市小舞木町は旧九合村になります。

九合村は飯塚村、東矢島村、西矢島村、新井村、飯田村、東別所村、小舞木村、新島村 内ヶ島村が合併。九つの村が合併してできました。

地元を回ってみました。

九合小学校の南にある公民館です。
太田近郊をさまよう院長です。

入り口に九合役場の文字があります。
太田近郊をさまよう院長です。

九合村の歴史です。

1981年明治14年松方正義が大蔵卿に就任。
デフレ政策のもと多くの国民が苦しむ。
1984年明治17年秩父事件が起こる。
明治18年内閣制度制定
1988年(明治21年)市制・町村制が公布される。

1889年明治22年4月1日。 
町村制施行により飯塚村、東矢島村、西矢島村、新井村、飯田村、東別所村、小舞木村、新島村が合併。新田郡九合村が成立する。

1940年昭和15年4月1日。九合村は新田郡太田町、沢野村、山田郡韮川村と合併吸収。太田町となる。
この時点で九合村は消滅します。

1948年昭和23年5月3日 市制施行 太田町は太田市になる

2005年10月1日 尾島町、新田町、藪塚本町と合併太田市になる。

以上の経過をたどり平原内科消化器科は太田市小舞木町にあります。
写真の九合村役場は1940年以前のものになります。

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九合小学校
院長が通っていた九合小学校です。
平原医院から通っていました。徒歩5分。学校まで近くてうれしかった。
九合小学校の正門。学校が近くて嬉しかった。
九合小学校の入り口
小学校の時のことはあまり覚えていないなあ。
平原内科消化器科の院長は九合小学校の卒業生です。
私の通っていた小学校です。

歴史です。小学校のホームページに書いてあることを写しました。

明治 6年10月 西矢島安楽寺に学校「不倦舎」ができる。
職員5人、児童数112人

ここから学校が始まる。
明治19年4月に新田第二尋常小学校として始まり翌年には飯塚尋常小学校に改名。
明治23年に九合尋常小学校となる。
明治36年高等科ができ九合尋常高等小学校となる。

昭和15年 太田町九合尋常高等小学校になる
昭和16年 九合国民学校と改称。
昭和22年太田町立九合小学校となり九合中学併設
昭和26年 東中の新設で九合中の閉校。
昭和48年 開校100周年
昭和52年 太田市立中央小学校を分離
昭和59年 太田市立旭小学校を分離

院長の小学生時代に100周年をしていました。
東中は移転して場所を移りましたが九合小が飯塚にいまもあるのは九合村の象徴として大切な場所だからですかね。
九合小学校
青年学校の文字。戦争中につけたものでしょう。
平原内科の院長は遊んでばかりいるわけではありません。
平原内科の院長は遊んでばかりいるわけではありません。
九合小学校の裏門です。
これを正面に持っていったほうがいいと思うのですが。
勿体無いなとおもいます。

歴史についてはこの後。

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九合小学校のルーツ。開文学校と不倦舎。

このようは碑文を見つけました。
場所は内ヶ島の蓮光寺。平原内科消化器科のすぐそばです。
平原内科消化器のそばにある古いお寺
開文学校の碑。開校100年の文字。
何しているんだと言わないでください。
太田市連光寺
太田市内ヶ島連光寺
お地蔵さんです。かさ地蔵を思いだします。
明治5年に学校制が決まり学校ができるまでにお寺で授業を行ったことは聞きます。
でも内ヶ島だったかな。
私の在学中の100周年行事では内ヶ島とは聞かなかったな。
家のそばなら見にいくと思いますから。

九合小学校のホームページを確認。歴史のところに記されている。

明治 6年10月 西矢島安楽寺に学校「不倦舎」ができる。
職員5人、児童数112人.。ここから学校が始まる。

安楽寺にもいってみました。

安楽寺の中にもこのような記念碑が建てられている。
記念碑の裏側には文字はありません。
太田市安楽寺


二つの碑は同じ日に建てられています。


この事情に詳しい人を探して見ます。
実家を探して九合小学校100年の歩みを探して見ます。

でも見つかるかな。

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世良田村役場
平原内科消化器科の院長は古い建物が好き
世良田村役場の建物を見つけました。
平原内科消化器科の院長は古い建物が好き
コンクリートで作られた建造物です。


カーテンが閉まり今は何にも使われていないようです。

世良田の夏祭りは昔は盛大だったと聞きます。
来年の夏は見に行きます。

世良田の山車の車庫です。大きな建物が3つありました。

来年見に来るからね。
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8月28日大雨の日


8月28日は大雨になりました。局地的豪雨。
平原内科消化器科の前の道路が冠水しました。

川みたいな平原内科消化器科の前。
平原内科の院長も困った。
平原内科の院長も困った。
車が走ると波がたちまるで船が走っているみたいです。
市役所に以前から改善をお願いしてあります。

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利根川沿いの大泉の廃線跡

野球場のそばに立つ鉄道の廃線跡です。
正確に言えば鉄道はこの部分は完成していませんから廃線ではありません。

東武鉄道熊谷線は国鉄高崎線と群馬県大泉にあった中島飛行機工場を結ぶ軍需線として計画されました。全長17.6キロ
大泉側は仙石河岸線とよばれます。

東武熊谷線として完製したのは熊谷・妻沼間の10.1キロのみ。終戦になり工事が中止されたためです。
赤字のため昭和58年5月31日に廃線となりました。
平原内科の院長は大泉町が好きです。川沿いが好き。

大泉側には一度も使われることのなかった橋脚がのこっています。
平原内科の院長は大泉町が好きです。桜が好き。

 太田の人には「戦争がもうだけ少し続けば鉄道が熊谷まで延びて便利だったのにな」という方がいます。昔の太田の人は熊谷が好きです

ボールを投げて遊ぶのに便利かな。

そばにマムシに注意との看板。
看板の下側の文字はブラジル語(ポルトガル)。
コブラと書かれています。
平原内科の院長は大泉町が好きです。ピリカも好き。
マムシはコブラというの訳です。

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平原内科・消化器科 
群馬県太田市小舞木町226
0276‐45‐3891
 
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